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鶏飯の起源
奄美大島の鶏飯の由来

美味しい鶏飯の店教えて下さい 美味しい鶏飯の店のご紹介
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居酒屋うも~れ奄美
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インドネシア料理 平塚北口
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海南鶏飯スープ付
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ラオスの鶏飯」 ご飯は糯米を蒸したもので、調味は色々な醬(油)・塩辛です。必ず野菜・ハーブが付きます。
 右は鶏皮と納豆の入った雑炊で、ラオスやジャワの高原地域のお正月や晴れの日の料理です。 これも鶏飯でしょうか?!
 両地とも鶏肉は御馳走だったのでしょう。ジャワ納豆と言えばテンペイを思い浮かべますがこんな粒のものもあります。日本の納豆汁より食べやすく美味しいです。
 鶏飯の発祥地は長粒米の故郷、 南シナ海に面する地域で、「海南鶏飯」(ハイナンチーファン)はとても有名です。茹た鶏とその茹汁で炊いたご飯を皿に広げるように盛り付けます。 マレーシアやシンガポール、タイなどの東南アジア地域で一般的な料理で、 カオ(飯)マンカイ (招き入れるように幅広に盛る) と呼びます。野菜などで飾りますが必ず付けるのがキュウリ。弁当も横長にして食べています。右上は硬質短粒米のインドネシアの鶏飯です。中国系の盛り付けはマンカイになっていません。
 次にジャワの鶏飯を紹介します。 値段が少し高いなと思えるスープ(殆、鶏・家鴨の茹汁に塩で味付たもの)を頼むと、皿に盛られたご飯と各種の野菜・ハーブ、醬(油)・塩辛が付き (殆、惣菜は皿に取ってくれ、 野菜は各自が籠から取り調味し)ます。 カレー(脂こい辛いスープ)などの肉や揚げ魚が入った値のはるものを頼んでも同じく割安な食事ができます。ご飯は少ししかくれませんが気にしないでお替りします。
 何故、少ないか?!ご飯に具を少しのせスープも少しかけて何杯も食べるのです。 スープもおかずなのです。右上の鶏飯は中国系の人に好まれ、右の汁かけご飯はジャワの人に愛されています。
 ジャワの安食堂のご飯は赤米が混ざっていますが赤飯ではありません、普通のご飯です。


 奄美大島の「鶏飯」の起源は、旧笠利町周辺にあった豪華 (島津藩の支配下で:貧しいのにネ)な郷土料理で、野鳥の炊き込みご飯を指す言葉であったとウエブに公開しているが?! 一方、 19世紀半ばの島の暮らしを記録した『南島雑話』では、主に豚肉料理についてのみ記述され鶏飯には触れられていない。 また、 江戸時代に島津藩の役人をもてなす為に(何故?!:豚肉から替えて)鶏肉を用いるようになったとか。 茹でた鶏肉を細かく裂き飯に載てだし汁をかけるという鶏飯の作り方が、 江戸時代の料理書『名飯部類』 『料理網目調味抄』に(分類書であるから江戸で食べられた料理だけでなく地方、海外のもの)も記載がある事から本土から伝わった可能性も指摘している。 現在のスタイルの鶏飯は、奄美市笠利町赤木名で1945年に創業した旅館みなとやの館主岩城キネが、開業に際して江戸(江戸では養鶏してない) 時代(殺生禁止の時代)にあった(どこの鶏料理) 鶏肉の炊き込みご飯にアレンジを加えて供するようにしたのが始まりとされる ・・・ と記載されている。
稲作文化と共に渡来した鶏飯 龍郷町の秋名は稲作が盛んで大島紬発祥の地でもあります。 稲作・養蚕の技術と共に大陸(陸真臘)から渡来したのでしょう。絹織物も鶏飯も稲作文化に由来します。アラセツは米の収穫に感謝し、 来る年の豊年を願う節目の日(臘日=大晦日) に行う歳時(祭事)です。これらの行事を臘祭(ろうさい)と言います。
 臘の語源は、蝋(蠟 = 蜡:簡体字)に求められ、意味は鳥(蝦)や猪(魚貝類)などの猟(漁)を指します。また臘祭には赤飯や餅(糯)、自然から授かった糧を神(稻魂:ニーャーダマ) 様や先祖にお供え(満開=マンカイ:手を広げて神や御霊を招くように幅広に並べ)て、共に 祝・祈願、誓う行事です。 行事の後の供物は晴れの御馳走です。魚や肉は干し、塩漬けにして保存、赤飯(米)や餅(糯米)は他の供物と共に食べます。過って、奄美はとても裕福な地域でした。
 砂糖黍栽培と共に平穏は崩れます。米の石高で徴税する制度は、稲作の難しい薩摩には酷な話です。その打開策が貴重な砂糖による納税です。砂糖黍は少ない面積の生産で米による納税額を賄えたでしょう。 そこで、イネ科の栽培が難しい薩摩の地に代えて奄美の北部にその場を求めたのではないでしょうか。薩摩藩による奄美支配の始まりです。
鶏飯発祥地 高きより低きへ流れる水のように食文化も低い薩摩へと。しかし、奄美民の意志ではなく薩摩の力によるものでした。 それまで稲作主体の北部平野はサトウキビ畑へと変ります。稲作を重く見なかった薩摩藩には当然の政策だったでしょう。米などは殿様か、重臣でも年に数回しか食べられない。 派遣された薩摩の代官にとって、米食は噂か書で知るのみ。秋名郷の米食を望んだのかもしれません。神聖な場所を薩摩の役人に侵されるのを嫌った祭司は、聖地を守るために招待所を設けたのでは?。 噂で知るだけの役人は「秋名」を「赤木名」と偽る村役の口上の心を知ることはなかったでしょう。 供された食はアラセツの(神からの)お下がり、「鶏飯マンカイ」です。
鶏飯の由来 供物の内、塩ブタに替えて野鳥が用いられたかもしれません。稲作文化と共に渡来した、 黒豚・短角黒毛牛、焼酎製造に必要な(黒)麹などは、殆どを薩摩に持ち去られました。 僅かに秋名郷で飼育されていた黒豚の存在を知られたくなかった、 或は臘祭の発祥地の陸真臘の慣例に従い鶏を用いたか、両方の理由により塩ブタから鶏皮へ替えたと想像します。
 塩ブタや鶏を供物に供する習慣は、陸真臘だった地域で広く行われています。また、海産物の干物や「なれ鮨」を供物に用いるのは水真臘の地域と重なります。 和式の神への供物は、赤飯や餅と共に干しアワビやスルメなどが供されます。秋名郷のアラセツの供物は、琉球(平瀬マンカイ)と山東半島(ショッチヨガマ) からのものと考えられます。 この伝来の道筋は稲作や養蚕と同一です。※カビを使う鰹節の製法は平瀬マンカイが始まった時期に南西諸島へ伝わりました。 琉球の(鶏)飯のかけ汁は鰹節のだしで、 汁かけ・お粥ともに食べられていますが、あまり飾りません。色々の味噌汁とご飯だけの定食も、体が温まるのは家鴨汁定食で、皮がとてもおいしいと評判です。
鶏飯マンカイ 陸真臘の鶏飯(カオ・マンカイ)はご飯と共に沢山の野菜、 多くの調味料や塩辛・ラー油などが並べ飾られます。 ご飯にスープをかける普段の食べ方と雑炊(お粥)に鶏(皮)・塩ブタ(皮) を調理したもの、芹・香菜等のハーブを加えて作る晴れの食べ方があります。 お粥は現在の中華朝粥の形に似ていますが、餅(糯)を入れる雑煮(雑炊) は陸真臘と和国でしか見られないようです。雑炊・雑煮は臘日(大晦日)が明けた朝からの晴れの食べ物です。
 江戸時代は鎖国をしていましたが中国や朝鮮とは交易があります。 江戸の元禄時代は、そば切りや江戸前寿司、醤油や味醂などが考案され、数々の料理紹介書も刊行されています。 鶏飯も薩摩(琉球・奄美)地方の食べ物として紹介されたのかもしれません。朝鮮半島へもこの料理法が伝え(琉球:奄美経由)られ、 タックク(鶏丸ごと茹で、その汁と糯米で作る粥、 現在の参鶏湯の原形)やスープかけご飯のクッパに発展したのかもしれません。 ※ タックク・参鶏湯、クッパは明治時代の書に記され、唐辛子や糯米・麹、キュウリ等の野菜は16世紀に半島へ渡った(DNA鑑定にる)とされてます。
 現在の韓国で食事をする際に、キムチ(:白菜などの野菜にアミ塩辛と唐辛子やニンニクなどのハーブで漬け込んだ乳酸発酵の保存食品)等、数多くの副菜・味噌汁を並べ飾る風景を見ます。 韓国版マンカイ膳に見えますが、起源はやはり水真臘の地かも知れません。
奄美の鶏飯 現在のスタイルは、戦後に岩城キネが江戸時代の料理本(薩摩経由で紹介された赤木名の接待料理) にヒントを得て考案したものでしょう。 沢山の副食・汁を飾る形(観光客用豪華マンカイ膳)の鶏飯は赤木名の郷土料理に認められたようです。予め具を載せてスープをかける、 或は自分で調整する食べ方は広く東南アジアで食べれているカオ・マンカイが由来かも知れません。奄美大島と韓国の鶏飯の源流は秋名郷にあると確信します。


「臘」 用語の説明
(ろう):① 臘は大きい動物 猪などを狩して獲物を祭壇などに供える。蝗などや小動物の鶏などを供えること。
        臘≒蠟をと簡単にする場合(la=ろう 意味は同じ)と(さ・ショ)と読む場合がある。
(ろう):② 時間的なつなぎ合わせ、節目の前日迄。空間的:印度と支那のつなぎ合わせの地域をインドシナ半島
) :③ 真臘寺院(アンコールワット)比丘梵論 = 梵字 or 乞食の意) として具足戒を受けてからの日数期間
現代でも(南方系)上座部仏教、 大衆部派の大乗仏教 (小乗仏教:上座部派を揶揄して呼んだ言葉 現在は使用しない) 共に、 出家者たちの共同体である 僧伽(サンガ)が存在する東南アジア(南伝上座部仏教:法華経)圏では托鉢(たくはつ:乞食)が毎朝行われています。 (上座部仏教では、肉食・飲酒の戒律は緩いです。小乗仏教と記載する学者の論文は信用に値しないと考えます。)
※ アンコール(真臘の首府)の時代は、比丘(男の出家者)と 比丘尼(女の出家者)は集団で僧伽(そうぎゃ)で修行していました。尼僧 (戒律の数は男より多い)は天女にも通じて地位は高く、 羽衣の様に軽い衣)伝説の由来にもなっています。羽衣伝説は、 照葉樹林文化圏の静岡の 登呂遺跡 周辺など低地や湖沼近くの水田に向く所で語られています。 また、蓬莱米文化圏の琉球・奄美(秋名郷の平瀬マンカイ)女神「ノロ」に伝えてらています。 (天女:、女神:。)
※ 秋名郷のアラセツは旧暦の8月に行われます。 年末でなく夏に行われるのは、「十月稲」の収穫期と具足戒明け (盂蘭盆会とのつなぎ合わせの為と考えます。 天台(南伝)仏教の火祭りは盂蘭盆会に行いますが、火(陽)祭りは本来、 日の出が遅くなる正月(元日の未明から)の行事です。
稲は他花受粉で短日性の多年草植物でした。 二期作をする印度・支那半島には栽培用稲として、「五月(に収穫する)稲」(日長反応性を失った冬作用品種=インデカ種) と「十月稲」(日長反応=短日性を持つ夏作用品種=ジャポニカ種)があります。
秋名郷(北緯28度)のアラセツの開催が、旧暦8月(新暦の9月秋)になったのは米の収穫に合せた為、真臘の行事 (尼僧・天女=女神・ノロ )に従ったと考えます。
「臘祭」「蜡祭」 の説明
臘祭(ろうさい)(漁)の獲物(含:家畜の生贄)を祭壇などにお供え(含:神域内で飼う)して収穫を感謝する祭事。
    通常臘月(12月8(9)日~大晦日(冬至・新嘗祭の夜)迄)に行われる歳時 陸真臘発祥の稲作起源の年末行事
臘祭は稲作起源で、赤(米)飯・餅(糯米)が供物の主役で、加えて山の幸(含む、家畜・農産物)・海の幸(魚貝類・乾燥海産物)が供されます。 山・海の幸は採取的要素もあり、赤米や糯米は陸稲由来の比較的寒さと乾燥に適した稲です。
蜡祭(ささい):正月に行われる豊作・豊年祈願祭 予祝する祭事(歳時)春節(節分明けの日)などに行う新年行事
    日本では東日本の(冬・正月に行われる)火祭りや、岩手などの蘇民祭 (そみんさい)などがこれにあたる。
    また、祈願(勤労の約束)をする際に稲(山)の女神や先祖・鬼などに祈ります。節分・秋田のナマハゲなど。
※ 蜡祭は漢代より先の周代からの畑作起源の農耕祭で春節を祝うほか、土地神を祭る社祭・上巳節・百神を祭るものです。 自然の節理(梵 or 理)に従い、 生活の節目に行われる豊作祈願や歓楽・慰労を兼ねた祭りです。
 秦代では、稲作地帯(漢族の領域)をも含め統一し、 後の漢代に西南地域から伝えられた農耕祭(臘祭) と一体化して漢民族吸収された他の稲作諸民族)に広まりました。
 日本では 蜡祭 として、耕地を叩いて(黄土高原では、耕地の水分量を保持する [毛細管現象を断つ] ために浅耕を行う。 この耕す姿に似て、 後に稲作とつなぎ合わせり) モグラ(鼠・害虫)の追い払いう行事や「ナマハゲ」などに仮装した神 (祖霊や鬼など)が家々を回り豊年の祈願や 家族の安寧を約束 させます。これらの行事は節目の前日(夜・未明)に行われ、儺(鬼払い)の行事にも通じているようです。 数々の豊作を祈願する祭りが今に伝えられている。
 これらの行事は、比較的冬が寒い地方で行われています。 早い時期縄文時代とします)に、南来の根菜農耕法と長江下流域 (寧紹地方)起源の短粒米(初期の稲は栄養繁殖の株分)稲作農法が伝来し、 後に風土に適合した稲と蕎麦などの畑作農法が融合して北・東へ広まったものと考えられます。 この時、南来の臘祭と畑作農耕起源の蜡祭が一体化したでしょう。 南山城の歳時は、 年末・年始のみならず、通年の行事として行われるようです。

※ 「アラセツ」の平瀬マンカイ・ショチョガマを現代の暦に合せて年末行事とした場合は、 蜡祭(正月行事)のシバサシと統合されて年末年始の一連の行事となります。夏に行われた際は、 大晦日に墓参りをして先祖の御霊(魂・鬼)を迎え、共に新年を祝い、 正月遊び(奄美:鬼ごっこなど、北国:モグラ追い)に興じます。
10月稲は水田の乾しと共に成熟します。 梅雨明けの早い奄美では8月には収穫時期を迎えるでしょう。 収穫作業は梵論瀬崎 (:秋名郷南方の有良(:良(糧)が有る≒奈良:良(糧)の(奈)中心)瀬の先、 山稜には芦花部が在る)に在った僧伽で修行を終え (安居(あんご)= 梵語:梅雨明け、 夏臘 or 夏安居(げあんご):僧伽で集団修行期間が明る日、 盆会入りの日)尼僧(夏臘を終えた比丘尼 = 正式な僧侶) 達も手伝ったのかもしれません。
○ 芦(:蘆 = 傾斜地中段から下方の平坦な所、上方は峠・頂、さらに下方は底 ○ 山稜の下方に水面のある芦ノ湖、中腹には「桃源郷・香格里拉」が在る) ○ (:中心地、から落ち[奈落]の底へ 修羅場  奈辺:中心の周辺、(国際)外国・海外の意味) ○花部(油菜の花:油を搾る部署 (寺)、:通常は菜の花を栽培する棚田の上部、畑の下方部(中腹)に在る。手(製)花部も同じ ○ 天花(里):棚田・上の畑が菜の花で埋め尽くされ、月明かりに映える処(郷=里)花部の中心
「蘇苅」(奄美大島にある地名):垂仁(すいにん)天皇の妃名に由来 蘇(から来た) 苅羽田刀弁:苅(羽田:田圃を司る羽衣を纏った天女)刀(=刀伊:女真(じょしん) = 扶余の弁(弁:諸官司・諸国との連絡の役職) またの名を、苅幡戸辺(かりはたとべ):伊須とを結ぶ (分水嶺の中腹)の戸(関所 = 芦検)(国の際)にある社(やしろ = 諸官司・諸国との交渉・連絡の館)を司る女神・巫女 ○ 蘇から嫁いで来て、伊須国との交渉・連絡のための幡(旗:通常八本を掲げる)を天皇(御神)の名代として司る女神の意味。○ 伊須:(刀)伊族の須(要所:須弥山(しゅみせん)や蓬莱山)豊かな国)伊須の中心は「阿木名」
阿修羅:(元々は、梵語 アスラ = asu(命)ra(与える)との意味、 漢語では(女童=巫女の接頭辞)+修羅:太陽神 or 火(燈火=誘う)の神  ○ 梵天アフラ・マズダー) がペルシャから印度に伝わり、修羅(男で水神の眷属)は醸酒にも失敗し、果報が尽きて住処を追われ、 鬼(魔)神になって、 アンコールの芦ノ湖(トンレサップ湖)の底に住むことになりました。修行を真面目にした阿修羅は、 天女火(陽)の神になりました。
※ 鹿児島県南西諸島の奄美大島では南来の、喜界島の野呂(ノロ)、秋名の平瀬マンカイのノロや女童(めらべ)、 北方起源のショチョガマとシバサシ、 加計呂麻の「諸鈍シバヤ」などの伝統行事が、産物では徳之島の黒毛和牛(米所の小千谷・山古志(村):棚田・闘牛で有名、同種の雲南黒毛短角牛) なども北方伝来です。
◎ 盂蘭盆(会)(うらぼん・え)は梵(サンスクリット)語の「ウランバナ」の音訳。盆会・お盆・精霊会(しょうりょうえ) ・魂祭(たままつり)・歓喜会(夏臘の祝:盆会の中日)など


 奄美大島の文化的遺産  奄美大島の稲作は、いくつかの特徴をそなえた農法が狭い地域で息づいています。また秋名郷や大島紬・鶏飯など、稲作に由来する文化が数多く民家や行事に育まれています。 赤米(種子島)、黒豚・短角黒毛牛 (徳之島)は、 西南シルクロード滇王国 (南詔国)の品種と同一です。日本にある稲作文化の殆どがあり、東南アジア・東アジアにおける稲作起源の文化的な凝縮地、種々の稲作文化がタイムカプセルのように点在しているのです。
 世界遺産は屋久島や小笠原諸島など、貴重な動植物の多様な種が存在する所が指定されます。奄美大島(南西諸島)は貴重な動植物の種では、二島に適わないですが、 多様な稲作文化の存在では世界に類を見ない、生きた博物館です。富士山・熊野古道ともにその霊山的宗教心が評価されたようです。 奄美はこの二カ所に勝るとも劣らない文化遺産です。秋名郷の保存をお願いします。




1位 黒糖焼酎居酒屋
暫定1位 加計呂麻島出身の店主が作るスープをかける鶏飯、 イベント性は少ないが比較的リーズナブルな料金。 平塚駅西口から郵便本局の交差点を左に曲がり横浜ゴムの正門向。
2位 インドネシア料理 平塚北口
暫定2位 雑炊鶏飯(上記参照)鶏皮の焼き鳥と豚皮の揚げた (煎餅のような) ものが入っています。錦糸卵はジャワ・ラオスではつくりません。平塚駅北口を左側の歩道を真直ぐ北へ、交差点から直ぐ、2階へ通じる階段有
3位 海南鶏飯は、 胡瓜・スープ付が条件
暫定3位 海南鶏飯の場合はキュウリなどの野菜と醬油・魚醬・塩辛、 鶏スープが付くのを鶏飯とします。付け合せは多種で満開(マンカイ)ほど好いです。
4位 名瀬市の郵便局交差点近
  くの
焼き鳥屋さんの鶏飯
暫定4位
観光客用の豪華マンカイ膳
5位

暫定5位
№6 ダイヤモンド ヘッド
(ハワイ)マーケット&グリル

トリップアドバイザー提供
アヒス(シーチキン)の鶏飯です!
はごろもフーズ!真似たハワイへ行ったらアヒスステーキ食べてね!
提案:レタスにキュウリを加えて
7位

暫定7位




END